ワールドカップ狂騒曲(9)勝ちに架ける橋 鈴木隆行、稲本潤一

語り継がれる勝負やゴールは数え切れない。トラブルや判定論争も、たびたび世を騒がせてきた。サッカーの祭典・ワールドカップ(W杯)の歴史を、エピソードで振り返る。(読売新聞メディア局編集部・込山駿)

金髪の一匹狼、つま先でツンッ

日韓大会のベルギー戦、鈴木が決めた同点ゴール(2002年6月4日、埼玉スタジアムで)=清水健司撮影

まるで、空中でスライディングするような姿勢だった。金髪の一匹狼ストライカー・鈴木隆行が精いっぱい伸ばした右足は、日本のW杯出場2大会目で初めてとなる勝ち点「1」への架け橋にも見えた。

2002年6月4日夜、W杯日韓大会の初戦。ホスト国の日本はベルギーと顔を合わせた。チームカラーの青一色に染まった埼玉スタジアムの観客席に、まずはベルギーが一瞬の静寂をもたらす。主将のウィルモッツに57分、見事なオーバーヘッド・キックの先制シュートをたたき込まれた。日本ベンチは浮足立ち、フィリップ・トルシエ監督が失点直後に、選手交代を検討し始めたと伝えられる。

しかし、選手たちは冷静だった。わずか2分後のことだ。

日本陣内の左サイド寄り。中田浩二が厳しいマークで足を出し、相手ボールを突っつき出した。これを、テクニシャンの小野伸二が拾う。小野は体の向きを前方に変え、丁寧なボールキープから、右足で相手ゴール前のスペースめがけてロングパスを出した。

その先へ、猛然と走り込んだのが鈴木だ。相手守備陣に走り勝つと、中途半端な位置で立ち止まったベルギーのゴールキーパー(GK)と向き合う形になった。ボールが2バウンドした瞬間、鈴木は前方へ身を投げ出した。届いた。ツンッと、右足のつま先がボールをはじく。GKの横をすり抜けたシュートは、ゴール左隅に吸い込まれた。

立ち上がった鈴木は、雄たけびとともにピッチを駆けた。日本のベンチ前では選手、コーチ陣、スタッフが入り乱れて抱き合い、喜びを爆発させた。そして、すさまじい大歓声がスタジアムを揺らした。

気迫の飛び込み、病み上がりの小野とも共鳴

見事なアシストをした小野は、病み上がりの強行出場だった

鈴木の足が1センチ短くても、走り出しがコンマ1秒遅れても、相手守備陣に体をぶつけられても、小野のパスのコースや長さがほんのわずかに違っていても――。あのゴールはおそらく、決まらなかった。小手先の技術ではなく泥臭い気迫で奪った、いかにも鈴木らしい得点だった。付け加えると、同点アシストの小野は開幕前に患った虫垂炎を薬で散らしてピッチに立っていた。地元開催のW杯にかける2人の意気込みが互いのプレーを高め合って、同点劇が生まれた。

これで、トルシエ監督は選手交代をいったん思いとどまり、日本はがぜん勢いを増した。67分、稲本潤一の鮮やかな勝ち越しドリブルシュートがネットを揺らす。終盤に追いつかれ、試合は2―2で引き分けた。とはいえ、欧州の実力派チームを相手に、火の出るような熱戦を演じた。稲本がもう一度ネットを揺らしながらもファウルを取られてゴールと認められなかった場面もあるなど、特に後半は日本ペースだった。

不器用な苦労人、一世一代のゴール

雄たけびをあげて味方ベンチに駆け寄る鈴木

鈴木は翌日が26歳の誕生日だった。所属の鹿島アントラーズでは、年下の柳沢敦らの陰で下積みが長く、競技環境の厳しいブラジルのクラブなどへの期限付き移籍を、当時までに4度経験した苦労人だ。2000年のシドニー五輪に主力を招集された鹿島が攻撃の駒不足に陥った時期に出場機会をつかむと、日本代表への道も開く。W杯メンバー入り当初はレギュラーとは言えなかったが、ライバルの体調不良もあってベルギー戦の先発出場をたぐり寄せた。

そんなチャンスで、一世一代のゴールを決めた。口下手な鈴木は試合後、「苦しい試合。いいタイミングで決められた」。苦楽を共にした先輩の幼い長男にゴールのポーズを見せることを約束していたが「ああ、そうだった。忘れちゃいました」と、頭をかいた。どこまでも不器用なヒーローだった。

日韓大会後は欧州移籍を経験し、日本代表でもアジアカップなどで活躍。ただ、W杯出場は日韓大会だけだった。2015年限りで引退し、現在は指導者の道を歩んでいる。

エリート稲本、初勝利のネットを揺らす

ロシア戦の決勝点を蹴り込む稲本(2002年6月9日、横浜国際総合競技場で)=青山謙太郎撮影

勝ち点1と鈴木のゴールを足がかりに、ステップアップした若き才能もいた。当時22歳の稲本だ。人さし指を自分の顔に向けて、満面の笑みでピッチ上を駆け回る。無邪気にゴールを喜ぶ姿を、日本中のサッカーファンが熱く盛り上がった日韓大会の象徴的なシーンとして、思い出す人も多いだろう。

ベルギー戦から5日後の9日、横浜国際総合競技場(現・日産スタジアム)。日本の大会2戦目は、ロシアとの対戦だった。青いサポーターの熱気はこの日もムンムン。小泉純一郎首相(当時)も観戦に訪れ、貴賓席でメガホンを手に声援を送っていたという。前半はロシアが多くの好機を作った。ただ、日本もベルギー戦で浮き彫りになった「フラット3」という守備戦術の弱点をしっかりと修正し、両チーム無得点で試合を折り返した。そして――。

51分だった。中田浩二から柳沢に縦パスが通る。柳沢がワンタッチで出したパスを受け取ったのが、オフサイドぎりぎりの位置にいた稲本だ。前のベルギー戦でチーム2点目を決めて調子を上げていた若武者は、非の打ち所がないボールさばきで前へ持ち出し、右足の力強いシュートをロシアゴールに突き刺した。「オフサイドかと思いましたけど、あとはゴールに入れるだけでした」と、いたずらっぽく振り返った。

「試合に出れば力は出せる」意地の2ゴール

ベルギー戦のゴールを喜ぶ稲本(02年6月4日、埼玉スタジアムで)=森田昌孝撮影

このリードを、日本は危なげなく守り切り、1-0でW杯初勝利を手にした。自信をつけた日本は、14日のグループリーグ3戦目でチュニジアを2―0で破り、2勝1分けでグループリーグを1位突破。決勝トーナメント1回戦でトルコに敗退したとはいえ、W杯に初出場した4年前のフランス大会は3戦全敗だったわけで、日本のサッカーが4年間で飛躍的に進歩したことは世界に示せた。ホスト国の面目を保った大会となった。

その中心にいた稲本は、Jリーグ創設(1993年)後の日本サッカー界の申し子ともいえるエリートの一人だ。ガンバ大阪の育成チームで頭角を現し、年代別の日本代表に選ばれて活躍。1999年には小野らとともに20歳以下の国際大会で準優勝も飾った。日韓大会の約1年前にはイングランド・プレミアリーグへの海外移籍も実現させた。

ただ、移籍先が選手層の厚い名門アーセナルだったこともあり、出場機会には恵まれなかった。同じ欧州組でも、所属先でレギュラー選手として活躍していた中田英寿や小野らと比べ、日韓大会前は代表チームで肩身の狭さを味わっていた。それだけに、期するものがあった。「試合に出続けさえすれば、力を出せるという自信はずっとあった。今回のパフォーマンスで、来季にむけて自分はこれだけ力があるということを証明できたと思う」と、ベルギー戦とロシア戦での連続ゴールに胸を張った。

その後は、イングランド、トルコ、フランスなどのチームで経験を積み、2010年以降はJリーグのチームでプレー。W杯の日本代表には10年南アフリカ大会まで3大会連続で選出された。38歳の今も、J1コンサドーレ札幌で現役を続けている。

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