ワールドカップ狂騒曲(10)始まりはゴン/王国に玉田が一泡

語り継がれる勝負やゴールは数え切れない。トラブルや判定論争も、たびたび世を騒がせてきた。サッカーの祭典・ワールドカップ(W杯)の歴史を、エピソードで振り返る。(読売新聞メディア局編集部・込山駿)

フランス大会、泥臭く浮き球に飛びつく背番号9

ジャマイカ戦でシュートを決める中山(1998年6月26日、仏リヨンで)=清水健司撮影

日本代表のW杯初ゴールは、初出場だった1998年フランス大会、6月26日のリヨンでのグループリーグ第3戦で生まれた。「ゴン」の愛称で親しまれる中山雅史が挙げた。

日本は初戦でスターぞろいのアルゼンチンに、第2戦ではこの大会で3位に入ったクロアチアに、いずれも0-1で敗れていた。格上の両チームに守備重視のサッカーで挑み、大量失点を回避。だが、岡田武史監督が「FWの軸」に据えた城彰二ら攻撃陣には、得点の気配さえ漂わないままだった。大功労者である三浦知良(カズ)を大会直前に外してまでメンバーを厳選したかいもなく、決勝トーナメント進出の可能性は第2戦までで消滅。ジャマイカとの最終戦は初出場国同士の対決で、日本は初めての勝利、勝ち点、ゴールを目指した。

楽観的な前評判もあった中で、この試合も日本は、W杯の厳しさを思い知らされる。主導権を握った序盤に好機を逸し続けると、39分と54分、ジャマイカのカウンター攻撃をくらって失点した。0-2の苦境に立たされた59分、岡田監督は呂比須ワグナーと平野孝を投入して攻勢を強めた。

74分、ついに目標の一つが実現。左サイドを駆け上がった相馬直樹のクロスを呂比須がヘッドで折り返す。ゴール前へ走り込んだのが中山だった。浮き球に飛びついた背番号「9」は、空中で体勢を乱しながらも右足を合わせた。持ち前の「泥くささ」で、ゴールにねじ込んだ。

全身全霊のストライカー、得点後に右足骨折

ジャマイカ戦後、小野剛コーチとともに涙を浮かべてスタンドのサポーターへのあいさつに向かう中山

30歳のストライカーは、当時の日本では傑出した勝負強さの持ち主だった。1993年10月、カタールのドーハで集中開催された米国大会予選ではイラン戦と北朝鮮戦でネットを揺らし、W杯出場権獲得への望みをつなぐ。チームは、イラクとの最終戦で土壇場に同点弾を喫して出場権を逃す「ドーハの悲劇」に泣いたが、中山はこの試合の後半にもゴールを奪っている。

そして、W杯フランス大会のアジア最終予選では、終盤に代表復帰。97年11月16日にイランと対戦したマレーシアのジョホールバルでの第3代表決定戦では先制点を突き刺し、「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれる悲願のW杯出場権獲得で貴重な役割を果たした。代表での活躍だけではなく、当時所属したジュビロ磐田のJ1リーグ公式戦では98年4月、1試合5得点や4試合連続ハットトリックといった離れ業も記録した。

だが、絶好調だった中山の力をもってしても、当時の日本には1点を返すのが精いっぱいだった。1―2で敗れたジャマイカ戦後、中山は涙ながらに、青一色に染まった観客へ頭を下げた。「勝ち点を取れなかったことが、すごく悔しい。得点は2点を追っての1点目だったから、喜びよりも、早くもう1点を取りたい気持ちの方が強かった」と報道陣の前で発言した。

翌日、松葉杖をついて登場した。ゴールを決めた後、相手DFと交錯したプレーで、右足すねを亀裂骨折していたという。まさに全身全霊をささげて、ゴンはW杯のピッチを駆けていたのだ。

4年後の2002年は、W杯日韓大会を戦う日本代表にもサプライズ選出され、日本がW杯初勝利を挙げたロシア戦に後半途中から出場した。日本のW杯戦記を彩る名選手の一人は、2012年限りでいったん引退したものの、約2年半後にJ3リーグのアスルクラロ沼津で復帰。間もなく51歳になる現在も現役を続けている。

ドイツ大会、ジーコJ惨敗の中で見せた意地

ゴールを喜ぶ玉田(右から2人目)と、祝福する中田英、三都主、小笠原満男(2006年6月22日、独ドルトムントで)=吉岡毅撮影

日本代表にはこれまで、不本意な成績に終わったW杯でも、いくつかの印象的なゴールがある。2006年ドイツ大会、6月22日にドルトムントで行われたグループリーグ最終戦。ブラジルが生んだ往年のスーパースター選手のジーコ監督が率いるチームが、指揮官の母国に一泡吹かせた先制点もその一つだ。

開始から猛攻をしのぎ続けて迎えた34分。稲本潤一が相手陣のセンターサークル付近から、左サイドへ長いパスを出す。受けたのはブラジル出身の帰化選手・三都主アレサンドロ。ドリブルで中央付近に切りこむと、その動きに相手守備陣がつられ、ペナルティーエリア内の左寄りにぽっかりとスペースが空いた。そこへ走り込んだのが、点取り屋の玉田圭司だ。スルーパスを受けた玉田が左足で放ったシュートは、GKの右上を抜け、豪快にネットを揺らした。

稲本の展開力、三都主の高速ドリブル、玉田のシュート力。各選手の長所が鮮やかな連係プレーに結実し、サッカー王国から1点をリードした。しかし、ここからは牙をむいた相手になすすべもなく、前半ロスタイム以降に大量4点を失う完敗に終わった。

「本気のブラジル」日本のタレント集団を粉砕

強烈な先制シュートをブラジルのゴールに蹴り込む玉田

玉田は試合後、「あのゴールで、ブラジルは本気になったんじゃないかな。悔しい気持ちだけ」とのコメントを残した。三都主は後年、「僕とジーコ監督にとっては特別な相手。タマ(玉田)のシュートで先制した時はすごく盛り上がった。前半の最後に失点せず、1-0で折り返せていたら、違ったゲームになっていたかも」と、悔しそうに振り返った。

中田英寿、中村俊輔、小野伸二といった1990年代後半以降の日本サッカーを盛り上げた才能がジーコジャパンには結集し、ほぼ一斉に円熟期を迎えていた。歴代最強のW杯代表との呼び声も高く、02年日韓大会の16強を上回る成績を期待されてドイツ大会に乗り込んだ。

ところが、チームは初戦でオーストラリアに1-3で逆転負けして意気消沈。クロアチアとの第2戦も0-0で引き分けた。ブラジルとの第3戦で日本は「2点差以上をつけて勝ち、なおかつオーストラリアがクロアチアに勝たないこと」がグループリーグ突破の条件という厳しい立場に追い込まれていた。

ブラジルに力の差を見せつけられての敗退後まもなく、中田英が電撃的な現役引退をインターネット上で表明したこともあり、日本サッカー界は深い失望と喪失感に覆われてしまった。それだけに、玉田が決めた先制ゴールは当時の関係者にとって、かすかな心の慰めとなった。

重ねたゴール史の上に、ベルギー戦の2得点

日本は、今回のロシア大会を含めてW杯に6大会連続出場し、うち3大会で16強による決勝トーナメントに駒を進めた。チームは計21試合で20得点を挙げており、今回の1大会6得点は過去最多。まだ8強以上には進めていないが、02年と10年の大会では無得点に終わった決勝トーナメント1回戦で、今大会は原口元気と乾貴士が鮮烈なゴールを決め、強豪ベルギーを追いつめた。

グループリーグで散った大会も含めて、必死でゴールを重ねてきた歴史の上に、ロシア大会での西野ジャパン大健闘と日本サッカーの将来展望がある。

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