[サッカーの惑星]コロンビア編(下)リーグ草創期 日系人躍動

コロンビアのサッカーリーグで活躍した日々を振り返る道工薫さん(3月8日、バランキージャで)=田口直樹撮影

◆はちまきのMF 優勝導く

首都ボゴタから飛行機で北へ約1時間半、バランキージャ市は人口約120万人の工業都市だ。かつての名手バルデラマや、ワールドカップ(W杯)ロシア大会の代表で活躍が期待されるファルカオらを輩出した「コスタ」と呼ばれる沿岸部に位置する。この地にコロンビアサッカーの先駆者といえる日系人がいる。

「サッカーは私に誇りを与えてくれた」。国内プロリーグ初代王者のメンバーで、コロンビア代表にも選ばれた道工薫(どくかおる)(93)は、数々のトロフィーや賞状が飾られた部屋で軌跡を振り返った。

1924年、広島県竹原市出身の日本人の父とコロンビア人の母の元に生まれ、バランキージャで幼少期を過ごした。未舗装の路上でボール代わりにけって遊んでいたのは、スペイン語で「ボラ・デ・トラポ」というぼろぼろの布切れを重ねて丸めたもの。「ボールさばきがうまくなったのはそのせいだ」と笑う。

雑貨店を営む父を手伝いながら、地元のアマチュアチームで活躍していたが、18歳で海軍に入隊。転機は、首都ボゴタの駐屯地に赴任した48年の9月だった。

コロンビアでは8月に国内リーグが誕生したばかり。ボゴタを拠点とするクラブ「サンタフェ」に所属する友人と偶然再会し、「お前が来れば、優勝できる」と誘われた。入団テストでゴールを決め、二足のわらじを履くようになった。

1年目から主にMFとしてチームを優勝に導き、翌年には主将を任された。背番号は「6」で、白いはちまきがトレードマーク。51年にはボゴタでパラグアイと対戦する代表に呼ばれた。

だが、52年から1年半、サッカーから離れ、朝鮮戦争に従軍した。志願したのは「父の祖国に行けるかもしれない」と考えたからだ。日本に駐留し、父の親戚と面会。「父の家族に会えてとてもうれしかった」

帰国後は名門「ミジョナリオス」に所属し、35歳で引退。バランキージャで85年に設立された「日本・コロンビア友好協会」の会長として日系人の支援にも力を尽くし、海軍学校では3月、海軍とサッカーの発展に貢献した功績をたたえるセレモニーが開かれた。校長のリカルド・ロソは「両方の道で活躍したことは我々にとって誇りだ」と語る。

「外国で活躍する選手が多く、レベルが高い」と欠かさずテレビで見ているコロンビア代表は、父の祖国とW杯2大会連続で顔を合わせる。「日本は素晴らしい国で、自分のルーツがあることを光栄に思う。両国の試合を見届けたい」(敬称略)

◇コロンビア・リーグ

1948年に創設され、現在は2部制で1部リーグは20クラブで構成される。最多となる16回の優勝を誇るのは、2016年のクラブW杯にも出場したアトレチコ・ナシオナルで、かつては元代表のGKイギータやFWアスプリージャが在籍。レアル・マドリード(スペイン)でも活躍したFWディステファノ(アルゼンチン)が所属したミジョナリオスが15回で続く。

<<
ニュース一覧へ戻る
>>