ワールドカップ狂騒曲(4)ロマーリオ父誘拐/トロフィー盗難/戦争

語り継がれる勝負やゴールは数え切れない。トラブルや判定論争も、たびたび世を騒がせてきた。サッカーの祭典・ワールドカップ(W杯)の歴史を、エピソードで振り返る。(読売新聞メディア局編集部・込山駿)

ロマーリオの父親誘拐(94年米国大会)

W杯米国大会、準決勝のスウェーデン戦後に喜ぶロマーリオ(1994年7月13日、今利幸撮影)

1990年代にブラジルの絶対的なエースとして活躍したFWロマーリオ。94年米国大会は、開幕前に母国で父親のファリア氏が誘拐される事件に直面した。この難局を乗り切って大会に臨んだスーパースターは、チームを優勝へと導き、MVPにも輝いた。

AP通信などによると、誘拐犯はロマーリオ側に身代金700万ドル、当時のレートで約7億円を要求した。しかし、おとなしく従うロマーリオではなかった。「父を返してくれなければ、W杯に出ない」と、メディアを通じて犯人へのメッセージを発信。これが、サッカーに熱狂的な国柄にあって奏功する。ファリア氏は6日間で解放され、警察に無事発見された。

父の解放後、ロマーリオは「人生で最も難しい6日間だった」と振り返った。ファリア氏は、犯人が要求した身代金の額を知らされて「自分に700万ドルの値段がつくとは思わなかったね。あのサッチャーさん(元英国首相)だって、そこまで高くはないだろう」とのコメントを残している。

盗まれたジュール・リメ杯(1966、83年)

W杯日韓大会前、兵庫県内に展示されたジュール・リメ杯のレプリカに見入る子どもたち(2002年4月27日、本田祐介撮影)

サッカー選手なら誰もがあこがれる、W杯の優勝トロフィー。「初代」のトロフィーは、1930年の第1回ウルグアイ大会を前に、当時のFIFA会長ジュール・リメ氏が私財を投じて作ったものだ。純銀製で金メッキが施され、高さ35センチ、重さ3.8キロ(1.8キロとの説も)だったとされる勝利の女神像で「ジュール・リメ杯」と呼ばれていた。

66年イングランド大会前。トロフィーはロンドンで展示中、何者かに盗まれた。警察が必死で捜査を進める間に、トロフィーの身代金を要求する便乗脅迫騒ぎもあった。開幕直前、一般家庭の庭先で無事に発見された。「ピクルス」という名の子犬が掘り当てたというお手柄の逸話も今に伝わる。ところが――。

70年メキシコ大会を制したブラジルが、「3度優勝した国が永久保持できる」という当時の規定を満たし、永久保持の資格を得た。そして、ブラジルサッカー連盟に展示されていた83年、再び盗難事件が起きる。犯人は間もなく捕まったが、今度はトロフィーが行方不明のまま。換金するために溶かされたとの説が有力で、97年に英国でジュール・リメ杯だとしてオークションにかけられたトロフィーは模造品とみられている。

■現在は2代目トロフィーを使用

前回W杯で、2代目の優勝トロフィーを差し上げて喜ぶドイツの選手たち(2014年7月13日、リオデジャネイロで)=源幸正倫撮影

現在のW杯トロフィーは、74年の西ドイツ大会から使われている2代目だ。頭上に地球を掲げる選手像で、イタリア人彫刻家の作品。高さ36センチ、重さ4970グラムの純金製という。何度優勝しても永久保持はできず、優勝国が4年間保持した後、レプリカを手にすることになっている。

戦争とワールドカップ

1970年大会の出場を逃したホンジュラスだが、その後は3度、W杯に出場している。写真は南アフリカ大会スペイン戦のピッチでジャンプする選手(2010年6月11日、ヨハネスブルクで)

愛国心を高揚させるサッカーの国際試合は、しばしば国同士のトラブルにもつながってしまう。それがW杯やW杯予選であれば、なおのことで、戦争に発展した例もある。1969年、中米のホンジュラスとエルサルバドルが隣国同士で6日間の戦闘を繰り広げ、5000人以上が死亡したとされる通称「サッカー戦争」だ。

両国は、翌年のW杯メキシコ大会への出場権をかけた予選で激突し、エルサルバドルが勝った。試合後、ホンジュラスが国交を断絶し、戦争に突入。不法越境問題や、国境線をめぐる対立が伏線にあり、サッカーは開戦の口実として利用されたとの指摘もある。

第1回W杯にあたる1930年ウルグアイ大会では、決勝で対戦したウルグアイとアルゼンチンが、試合後に国交を一時断絶する騒ぎになった。

戦争がサッカーに影を落とした過去もある。第2次世界大戦のため、4年に1度のW杯には1938年のフランスでの第3回大会以降、50年にブラジルで第4回大会が開かれるまで空白期間がある。日本には、38年フランス大会でW杯初出場を予定しながら、日中戦争の激化で参加を見合わせた歴史もある。94年米国大会の欧州予選には、ボスニア内戦に対する制裁措置として国際試合を禁止されていた強豪ユーゴスラビアが出場できなかった。当時のユーゴを代表するスター選手だったストイコビッチは、Jリーグの名古屋グランパスへ移籍後の1999年3月、祖国への空爆に抗議するメッセージをアンダーシャツに書き込み、客席に示したこともあった。

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