ワールドカップ狂騒曲(6)ゴンと秋田、サプライズ吉報/久保、またもや涙

語り継がれる勝負やゴールは数え切れない。トラブルや判定論争も、たびたび世を騒がせてきた。サッカーの祭典・ワールドカップ(W杯)の歴史を、エピソードで振り返る。(読売新聞メディア局編集部・込山駿)

 

監督は欧州視察中、異例の発表〈日韓大会の日本代表選考〉

サプライズ選出された中山(左)と秋田。発表時、中山は練習中だった(2002年5月17日、それぞれの所属クラブで撮影)

2002年5月17日、日本がホスト国として出場したW杯日韓大会の日本代表メンバーが記者会見で発表された。だが、会見場の東京・芝公園にあるホテルには、メンバーを選んだ本人であるフランス人指揮官フィリップ・トルシエ監督がいなかった。

会見開始15分前の午後3時15分。トルシエ監督が、本大会で対戦するベルギーの試合を視察に出向いた先のパリから、会見場にいる日本サッカー協会関係者に電話連絡してきたという。協会の事務局員が大急ぎで資料を完成させ、印刷して報道陣に配布。23選手の名前は、木之本興三・日本代表団長が1人で登壇して読み上げた。

「おぉー」

約240人の報道陣は2度、どよめいた。FW中山雅史とDF秋田豊という前回のW杯で主力だった両ベテランの名前が読み上げられた瞬間のことだ。2人とも、直前の欧州遠征メンバー26人に含まれていない選手だ。「W杯メンバーの99%はここにいる」という遠征当時のトルシエ監督の宣言は、いともあっさり覆された。

選考理由を、木之本団長が具体的に語れなかったのは無理もない。「トルシエ監督はいつ説明するのか」「誰か代わりに説明できないか」。会見場は、報道陣のむなしいいらだちで満たされた。

ゴンの愛称で知られる中山は、記者会見のテレビ生中継を見ていなかった。所属するジュビロ磐田の練習場で、いつものように必死でボールを追っていた。発表の約30分後に「選ばれたみたいだよ」と磐田の監督から伝えられ、「本当ですか!」と声を上げた。急きょスーツを取り寄せて報道陣の前に登場。「気持ちでは負けないプレーをしたい」と、かみしめるように語ったという。

秋田も仰天した。「ドッキリカメラじゃないの?」と、鹿島アントラーズのクラブハウスに集まった報道陣を笑わせた。鹿島からは最多の6人が代表入りしたが、ほかの5人とは別室でテレビを見ていたという。「1%の確率でもあきらめないでやろう」と、代表落ちしていた時期に中山と誓い合っていたことを打ち明け、「その気持ちが伝わったのでは」と喜んだ。

 

■「2人は精神的支柱」1週間後のトルシエ説明

W杯メンバーの選考理由を説明するトルシエ監督(5月24日、国立競技場で)=原中直樹撮影

1週間後、トルシエ監督は23人の選考理由を、初めて記者会見で説明した。ゴンと秋田を選んだ理由は「彼らは強い精神力を持っていて、最後まであきらめずに準備をしていた。中田英寿1人でチームを引っ張っていくのは、負担が大きい。3人で引っ張ってほしい」と述べた。欧州遠征で惨敗した「ノルウェー戦後に決断した」とも。攻守で体を張れるパワフルな2人に、土壇場で活路を求めた。

結局、ゴンはロシア戦で交代出場したが、秋田は出番に恵まれなかった。ただ、両ベテランの加入後に日本代表は復調した。16強による決勝トーナメント1回戦で敗退したものの、W杯で初の勝ち点をベルギーから、初白星をロシアからもぎ取るなどして、2勝1分けでグループリーグを1位突破。ホスト国の面目を保つ成績を残した。

 

■テクニシャン俊輔らが涙

がっかりした表情で報道陣と話す中村(5月17日、横浜市で)=竹田津敦史撮影

サプライズ選出の陰で、MF中村俊輔、FW久保竜彦、DF中沢佑二らがメンバー落ち。すでに日本屈指のテクニシャンになっていた当時23歳の中村は「30歳過ぎてやっている人もいる。また日の丸(のユニホーム)を着たい」と再出発を誓った。その後は欧州のクラブで実績を重ね、2大会続けてW杯のピッチに立っている。

 

ジーコの23人目は「マキ」〈ドイツ大会の日本代表選考〉

表情を引き締め、W杯メンバー発表に臨むジーコ監督。奥は当時の川淵三郎・日本サッカー協会会長(2006年5月15日、東京・渋谷で)=鈴木毅彦撮影

ジーコ監督は、ゆっくりと選手の名前を読み上げた。2006年5月15日、W杯ドイツ大会の日本代表メンバー発表のために東京・渋谷のホテルで開かれた記者会見。300人を超える報道陣がどよめいたのは23人目、最後の選手が「マキ」と告げられた瞬間だった。驚きの半分ほどは、「クボ」が読み上げられなかったことに対するものでもあっただろう。

自身がブラジル代表の大スター選手だった指揮官は、中田英寿、小野伸二、中村俊輔、稲本潤一という華麗な技巧の4人を中盤にそろえるなど、主力をほぼ固定した選手起用が目立った。「何も隠すものはない」と、練習も報道陣にほぼ全面公開し、作戦や采配もオーソドックスだった。

過去2大会は大騒ぎになったW杯メンバー選考だが、今回は波乱の少ないものになるだろう――。そんな観測が、日本サッカー界を覆っていた。ところが、またしてもサプライズが待ち受けていた。

 

■まさかの連続落選 大型ストライカー久保

厳しい表情で報道陣の前を去る久保(06年5月15日、横浜市で)=森下綾美撮影

「また落ちたかという感じ」

メンバー発表後の夕方、久保竜彦は横浜市内にある所属チームの練習場で報道陣の前に現れた。前回の日韓大会に続き、有力候補とされながらも、最後の最後に涙をのんだ。

ダイナミックな左利きのストライカー。ジーコ監督から常々、能力を称賛され、06年に入ってからの日本代表戦はほとんどに先発出場してきた。ただ、2年前から腰やひざなどに故障を抱え、チームやスタッフらの尽力で回復してきた選手でもあった。29歳の体調は、完全復活と言えるレベルまでは戻らず、それが落選につながった。

本人は「前よりも(選ばれるのではないかという気持ちが)強かった」「まだ100%でやれる状態ではなかったから仕方がない」と、さばさばした表情を見せ、指揮官の決断に異を唱えることもなかった。だが、やはり悔しさは隠せなかった。「日に日に(体調が)良くなっている感じはあった」と述べ、目を潤ませる一幕もあった。

ジーコ監督は現役だった1986年、W杯メキシコ大会でけがを抱えてプレーし、準々決勝で敗退した経験を持つ。久保を外した理由を問われると「中途半端な状態で本大会に臨むことが、チームにどんな影響をもたらすかを考えた」と、説明した。

 

■報われた献身的プレー、笑顔の巻

サプライズ選出を、サポーターとともに喜ぶ巻(06年5月15日、千葉県市原市で)=鈴木竜三撮影

巻誠一郎は発表後、千葉県市原市内で記者会見した。「期待をせずに(テレビを)見ていたので、びっくりした。夢だった大会に出られるのは光栄」と、満面に笑みを浮かべた。

1メートル84の体格を生かし、前線で泥臭く体を張るプレーを身上とするFW。献身的なプレースタイルは、当時所属したジェフ千葉のイビチャ・オシム監督から「巻はジダンにはなれない。だが、ジダンにはないものを持っている」という言葉で価値を認められたこともある。初めて日本代表入りしたのが05年7月と遅く、前評判ではメンバー入りは難しいとみられていたが、どんでん返しの選出となった。本人は「攻撃的なプレーをしたい。チームに活力を与えられれば」と抱負。ジーコ監督からも「本大会でも働ける」と励まされた。

しかし、「日本代表史上最強」との期待を集めたジーコ・ジャパンは、本大会で1分け2敗と輝けず、GL敗退に終わった。ブラジルとの第3戦に先発した巻も、60分までプレーして無得点と、抜てき起用にこたえられなかった。ただ、37歳の現在も、巻はロアッソ熊本で現役Jリーガーを続け、ふるさとのクラブに尽くしている。

「W杯狂騒曲」記事一覧はこちら

<<
ニュース一覧へ戻る
>>